15年

阪神大震災から15年が経ちます。当時わたしは神戸に住んでいて、小学校三年生でした。明け方、強烈な縦揺れで目が覚めて、親の悲鳴、物が落ちる音、弟の泣き声…そこからの記憶はあんまりありません。思い出すのは、いつも自室でひとりで寝ていたのに、その日はたまたま、具合が悪くて、親と同室で寝ていた、ということ。でも今思えば、それが幸いしたんだろうな…わたしの部屋からリビング、親の部屋へと向かう廊下は、落ちてきた時計と、大破した熱帯魚の水槽でガラスまみれだったから…。

母が語るには、そのときそこまでの異常事態とは思わず、呑気に隣に奥さんと立ち話をしたそうな。それで、外に出てみたら、遠くから黒い煙がたくさん上がってて、これはまずいかも、とやっと認識したとか。テレビは当初つかなかったけれど、そのあとやっとついて、二つに割れた高速道路をみて、あぁ大変なことが起きたんだ…と思ったらしい。

母は当時外科の病院に勤めていたので、閉まってるだろうなーと思いながら車で行ってみたら、怪我をしたひとであふれかえっていたので手伝いを数時間したらしい。父はその間、明石のほうまでいって、会社の人から水を貰ってきたらしい。

その二日後、わたしと弟は、母の実家に預けられました。といっても伊丹は使えないので、車で岡山までいって、迎えに来た祖父と共に飛行機に乗って…。

母の実家は今住んでいる街にあって、わたしは慣れ親しんでいたけれど、当時幼稚園の弟は雪をはじめて知って、到着したのが夜だったのに、どうしても雪で遊ぶとごねていた。

「明日になったら溶けちゃう!絶対溶けちゃう〜!」と…今になっても笑ってしまう、春にならないと雪は溶けないのに!

祖母の家の近くの小学校に二ヶ月ほど通うことになって、全校生徒の前、朝礼で、阪神大震災について話さなきゃいけなくなって、凄くいやだったのを覚えてる。それでも、身内友人全員無事だし二日しか神戸にいなかったのでよくわかりませんとも言えず、それなりに脚色して話をした記憶がある…。転校生とはいえど相応の事情だったので小学校ではみんな優しくしてくれたな…。

いろいろ書くと軽率になりそうだけれど、もうあんなことが起きなければいいなと心から思ってる。あと、15年って長いようで短かった。色んなことがあったな。特に最近は音を立てるぐらい毎日が早いよ…。もう眠らなきゃ。