千と千尋の神隠し
- 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
- 発売日: 2002/07/19
- メディア: DVD
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昨日TVでやってたので久々に観ました。冒頭…荻野家の車はアウディ??と思ったら、協賛にもアウディが…。どうやら宮崎駿の愛車なんだそうです。
ジブリにはやっぱり、こういう、不思議だけれど完璧な異世界ものを作ってほしいな…と思います。今回は特に、CGなのかどうかわからないけれど、映像が美しくて…千尋が夜の港からみた、対岸の温泉街の極彩色の光とか、湯婆婆の部屋に向かう廊下の、和風とも洋風とも中華ともつかない雰囲気とか…。もうストーリーはどうでもよくて、ひたすら映像だけ観てるだけで、満足です。
映画のテーマはよくわからないし、楽しんで観れれば別にいいとは思うんですが、敢えて言うなら「労働」かなーとか考えていました。千尋は、人のものを勝手に食べた両親を助けるために湯婆婆に仕事を求める。仕事を求めるものには必ず仕事を与えなければいけないという契約をしているらしき湯婆婆はそれに応じ、千尋は働くことになる。けど、その労働というのは、わたしたちが豊かになるために働くとか、楽しみを得るために資金が必要だとか、そんなレベルの話じゃなくて、単に生き延びるための手段でしかない。先があるのかないのかもわからないし、でも、仕事をすることをやめたら、そこに待つのは死だけなんですよね…。労働以外の選択肢がないし、労働が日常になってる。
そんな世界に放り込まれて、千尋は与えられた仕事をこなすわけですが…。お腐れ神というとんでもなく汚い神様が湯屋にやってきて、千尋はその相手を命じられます。頭を使って、お腐れ様が結局河の主でした!ということが発覚したとき、あんなに千尋を嫌がって役立たず呼ばわりしていた湯婆婆が、みんなの前で千尋を褒め、抱き締めます。そこで初めて千尋は、労働の喜びを知ったのだろうなーと考えていました。従業員にはやたら横柄な湯婆婆も、お客に対してはとても腰が低く、異臭を放つお腐れ様へも態度を変えることはありません…お腐れ様のエピソードには、湯婆婆の仕事(=銭)への意識の高さと、成果主義の考え方を見て取ることができます。
しかし……『千と千尋の神隠し』自体に、どこか性的な暗喩みたいなものを感じてしまったりもしました。温泉というのが、日本的な感覚では、ちょっといかがわしさを感じさせたりもするし、あの湯屋のムードや温泉街の赤い行灯は、やっぱり遊郭っぽさを感じさせるよ…。穿った見方なのかもしれないけれど、まず千尋が両親の不始末によってお湯屋で働くという導入が、借金のカタに遊郭に売られる少女を彷彿とさせますし、湯屋で働く湯女たちの格好もそれっぽい。なんか、やたらと胸の谷間が見えているし、妙に色気があるし。あの麻呂眉はなんだろう…。千尋と同年代の少女達が雑巾がけをしたり、千尋のインストラクター的役割のリンが雑用をしたりしてるのはみたけれど、あの湯女たちは一体どんな仕事をしてるんだ…。ハクの存在も、女衒のように見えてきます。そして、千尋は遣り手婆のような湯婆婆に名前を奪われ、「千」と名乗ることになります。まさに、源氏名…。
で、カオナシの存在がその疑念に益々拍車をかけます。千尋とコミュニケーションをとりたいカオナシは、ひたすら手の上に金を出して、千尋に「受け取れ」と迫ります。「いらない」と拒絶する千尋に、どうしていいかわからなくなって発狂するカオナシ。金にものをいわせて、千尋を部屋に呼びつけて、何がほしい?なんでもしてやる、なんでも出してやる、と懇願するカオナシは、中年オヤジの哀愁すら感じさせる。んで、カオナシがいる部屋に千尋を放りこみ、ふすまを閉め、「お客様、どうぞごゆっくり」とサラリと言ってのける湯婆婆には、遊女にはじめて客をとらせるかのような雰囲気が漂う。
まあただの邪推に過ぎないんですが、こういう風に解釈されても仕方ないほど、条件は揃ってるんじゃないかなーと思います。そういう妖しさも含めて、わたしはこの映画が大好きです。ハク様かっこいいし。
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それにしても宮崎駿監督って本当に、変な意味ではなく「少女」が大好きなんだな…。千尋が欄干に座って足をぶらぶらさせるシーンとか、手をちょっと持ち上げて走る、あの走り方とか、観察の賜物だと思う。